始めに
始めに
宮崎駿監督『もののけ姫』解説あらすじです。
演出、背景知識
網野善彦の影響、ジョセフ=キャンベル、クリストファー=ボグラー
本作品は、宮崎駿という映画監督にとって、良くも悪くも転換点になった作品です。モダニズム文学はT=S=エリオットの『荒地』などを皮切りに、フォークナー(『響きと怒り』)、ジョイス(『ユリシーズ』)、三島由紀夫(『奔馬』)、大江健三郎(『万延元年のフットボール』)など、神話的象徴の手法を取り入れるようになりました。これは神話の象徴として特定の対象が描写され、新しい形で神話や特定の対象が発見される機知が喚起する想像力に着目するアプローチです。こうした象徴的手法はジョセフ=キャンベルなどにも由来し、またハリウッドではキャンベルの文化人類学からクリストファー=ボグラーが脚本術として体系化します。
T=S=エリオット『荒地』はまた、コンラッド『闇の奥』の影響があり、『闇の奥』の非線形の語りを『荒地』も取り入れています。『闇の奥』は、語り手が物語世界内の他の登場人物の語りの聞き手に交代することなどにより、語りの主体を複数導入しています。一個のエージェントの視点やその現象的経験に着目して歴史を物語るアプローチはコンラッド『闇の奥』からT=S=エリオット『荒地』やフォークナー『響きと怒り』へと受け継がれていきます。
そうした一個のエージェントに着目して歴史の再現や再構築を図る試みはその後、歴史学の中のアナール学派以降の心性史的試みと結節していくことになり、そうした中で心性史としての文化人類学、民俗学に着目する中上健次(『千年の愉楽』)のような作家も現れました。宮崎駿もそうした前史を踏まえ、中上健次も着目した綱野善彦の文化人類学、民俗学に注目しています。
作家主義、ロマン主義
宮崎駿には偉大なる父として手塚治虫がありましたが、手塚治虫はゲーテ『ファウスト』を下敷きにする『ネオ=ファウスト』を未完のまま亡くなりました。ゲーテという作家は、形式主義者という意味合いにおいて古典主義者であり、作家主義者であるという点でロマン主義者でした。同時代のフリードリヒ=シュレーゲルはゲーテの『ヴィルヘルム=マイスターの修行時代』をシェイクスピア『ハムレット』への批評性に基づくものとして、高く評価しました。このような立場からは『ファウスト』がダンテ『神曲』のある種翻案であるのと同様に、『ヴィルヘルム=マイスターの修行時代』も『ハムレット』のある種の翻案であると評価できそうです。古典の形式をなぞりつつ、ゲーテという作家個人の主体性を発揮することで展開される翻案作品がここにはあります。
手塚治虫の『ネオ=ファウスト』も『ファウスト』への批評性に基づき古典である『ファウスト』の形式を踏まえつつ、手塚という個人の作家性を全面に発揮した翻案となっています。映画においてはオーソン=ウェルズ監督『ハムレット』、ゴダール監督『ゴダールのリア王』、キューブリック監督『シャイニング』のような、原作という形式に対して作家個人の作家性を発揮した脚色に仕上がっています。『もののけ姫』以降の宮崎駿においても事情は似通っており、例えば『ハウルの動く城』『風立ちぬ』『君たちはどう生きるか』などの作品は、原作に対して宮崎駿個人の作家性をふんだんに凝らした内容となっています。
そして本作『もののけ姫』は、宮崎駿の作家性を象徴する『風の谷のナウシカ』を、モダニズム文学の神話的象徴性、心性史的試みから再解釈をはかった内容になっています。
自然の崇高さ
本作品は自然の崇高さから、人間という種が自己絶対化を間逃れ、生態系や環境に対して配慮の責任を問われる環境倫理的主題が描かれています。新井『ザ=ワールド=イズ=マイン』と重なります。
物語世界
あらすじ
日本が舞台。東と北の間にあると言われるエミシの村に住む少年アシタカは、村を襲ったタタリ神を退治した際、右腕に死の呪いを受けます。その正体は、何者かに鉛のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大な猪神(ナゴの守)でした。アシタカは呪いの為村を追われ、呪いを絶つべく猪神が来た西の地へと旅立ちます。
総評
ナウシカのリブート。完成度は…
ナウシカのリブートのような内容です。見応えはあるものの、退屈もします。
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参考文献
小田部胤久『西洋美学史』
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