始めに
山崎貴監督『ゴジラ-1.0』解説あらすじを書いていきます。
演出、背景知識
『シン=ゴジラ』というモニュメントにプラスワン
『シン=ゴジラ』はゴジラシリーズに対する究極のアンサーになっていました。『ゴジラ FINAL WARS』の対極をいく作品で、ゴジラシリーズに対するリスペクトに満ちています。
演出のベースは平成ガメラ三部作(1.2.3)や平成ゴジラのリアリズムですが、震災を踏まえた作品になっていて、社会派としてのシリーズ原点のコンセプトも踏まえています。またCGを使いつつ、それに着ぐるみのような質感を与え、人造物の醸すアングラでエモーショナルなシリーズの雰囲気を保っていました。
全体的に作家主義を押し殺して古典主義に奉じ、ゴジラシリーズを最大限尊重する内容になっていました。
山崎貴監督『ゴジラ-1.0』はそんなモニュメントの上に築かれた作品で、怪獣特撮部分は『シン=ゴジラ』の美点を受け継いでいます。CGを使いつつも着ぐるみの質感を残しており、特撮部分に関しては『シン=ゴジラ』プラスワン、と呼べる作品です。『シン=ゴジラ』同様、ゴジラシリーズという伝統の上に堅実に築かれた作品で、シリーズを代表する内容と呼べるでしょう。
山崎貴作品のエッセンス
山崎貴監督には百田尚樹原作の『永遠の0』という零戦のパイロットを扱う内容の作品もありますが、本作もそのあたりを踏まえて、零戦のパイロットを主人公としています。『シン=ゴジラ』同様、シリーズの伝統の上に作家性を積み上げる技量が圧巻です。
他にも本作は宮崎駿監督『風立ちぬ』など、他の零戦ものの影響が見えます。
タイトルの意味
タイトルは戦後が舞台となっていて、戦争で壊滅し「0」になった日本をさらに破壊するゴジラを象徴するニュアンスのようです。
加えて、初代『ゴジラ』よりも以前の時代を扱っているということにもかけたものであるのと、零戦ともかけていると思われます。
『シン・ゴジラ』との違い
本作品は『シン=ゴジラ』と違って、メロドラマが中心となっています。『シン=ゴジラ』はマクロな政治的アクターのダイナミクスを追う内容で、湿度が低くテンション抑えめでしたが、相対的には本作はウェットなメロドラマが展開されています。
主人公たる敷島青年という帰還兵のトラウマの物語が展開されていきます。
帰還兵もの。戦争もの。戦争の象徴としてのゴジラ
本作品は『タクシー=ドライバー』や『ディア=ハンター』のような、帰還兵のトラウマと疎外感を描く内容になっています。
こうしたニューシネマ作品と同様、本作の主人公の敷島も戦争で死ねなかったトラウマと、国民から向けられる差別的な眼差しに苦しみます。ゴジラと戦う中で、過去のトラウマを克服しようとする敷島の姿が見どころです。
本作におけるゴジラは戦争、戦争被害者、戦争のトラウマの象徴になっており、それとの戦いが描かれていきます。
象徴、テーマとしての合理性のとれなさ
しかし本作のメロドラマは、全体的にテーマ、図式としてきっちりデザインされていない印象がしました。
どういうことかといいますと、例えば『シン=ゴジラ』では、ゴジラは震災の象徴なので、純粋にそれは人類の敵であり悪でした。またゴジラとの戦いは防災、災害との戦いとして解釈できました。
ところが本作のゴジラは戦争の被害者など、人類の敵ではないものも象徴しているうえ、そもそも戦争やそれに付随する不幸や犠牲者の象徴たるゴジラに戦争、暴力で打ち勝って主人公や日本が過去を乗り越え前進する、というプロットは図式的にかなり無理があり、最後も無理やりまとめた印象でした。
物語世界
あらすじ
太平洋戦争末期。特攻隊員の敷島は、零戦の故障として大戸島の守備隊基地に着陸します。しかしベテラン整備兵の橘は、戦闘機に異常がないことから敷島が特攻から逃げてきたことを悟ります。 その夜、巨大な恐竜のような生物が基地に襲来し、ある整備兵は、それが島の伝説にある「呉爾羅」ではないかと言います。橘は敷島に零戦に搭載された砲弾で攻撃するように言いますが、怖気づいた敷島は攻撃できません。その結果、橘と敷島を残して部隊は全滅します。
1945年の冬、東京に帰ってきた敷島は、隣に住む澄子から両親が空襲で亡くなったと知らされます。彼は闇市で空襲中に託された赤ん坊の明子を抱えた典子と出会い、共同で暮らします。 やがて敷島は、米軍が残した機雷撤去の仕事に就きます。生き残ったことに負い目があり、命の危険が伴う仕事を選んだのでした。
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