はじめに
イーストウッド監督『許されざる者』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、演出
90年代のスランプ
イーストウッドは監督に進んでからもレオーネ監督やシーゲル監督の下でのキャリアを活かして西部劇や活劇、南部ゴシックなどを得意とした一方、従来メロドラマは不得手でした。『マディソン郡の橋』など、原作がひどいのもありますが、演出もひどいです。
それと代表作はこの『許されざる者』とされており、実際賞歴としてはそうだとは思うものの、90年代はキャリアのなかでかなりスランプで、『許されざる者』もかなり大味で劣悪な品質で、賞に関してももっぱらこれまでのキャリアに対する決算の意味合いが強いと感じてしまいます。
ただ演出家としてそれ以降も成長し続けたのがイーストウッド監督で、とくに『ミスティック=リバー』はフィンチャー監督の『ファイト=クラブ』みたいな感じで、ここから目に見えてメロドラマの演出が上手くなって行きます。
情報過多
本作はとにかくネタを詰めこみ過ぎです。ニューシネマ要素とか、銃規制ネタとか、私刑の是非ネタとか、過去の西部劇へのいろんなオマージュがありつつ、全体的にいろんな要素が相互に水と油で変な感じになってます。
『ペイルライダー』で見せた活劇の繊細な演出力は消え失せ、後期の黒澤明のようなギトギトの油の味しかしません。西部劇の集大成をやろうとして滑っています。
タイトルの意味
タイトルの意味は日本人にはちょっと馴染みにくいと思ってます。イーストウッドは共和党支持でリバタリアン(古典的自由主義者)として知られています。そしてアメリカの伝統的な権利である銃による武装権の庇護者です。
そしてタイトルが示しているのは公権力による銃規制や警察権の濫用が許されないのと同様に、武器や力による軽はずみな私刑や暴力による他者の権利の侵害も、等しく許されない、ということです。武装権の侵害も、理由のない他者の生命の侵害も、等しく権利の侵害であり許されない、というのがテーマになっています。
つまるところ本作はイーストウッドが俳優、監督をつとめる『ダーティー・ハリー』シリーズなど、リバタリアン的なマッチョなドラマに対して若干の留保を加えるようなテーマになっています。
本作においては他者の権利を独善的な判断で侵害したとして、公権力を背景に銃規制と拷問を展開する保安官リトル=ビルも主人公の元アウトローのマニーも、等しく責任を問われます。同様に『ミスティック=リバー』でも、軽率な私刑で許されざる者となった主人公が描かれます。
二人の許されざる者、マニーとリトル=ビル
本作における許されざる二人、マニーとリトル=ビルはそれぞれ積極的自由において、個人の権力の暴走を体現するのがマニー、公権力の暴走を体現するのがリトル=ビルと言えます。リトル=ビルは、警察権を背景にして、過激な銃規制と拷問により、他者の権利を侵害しようとします。
二人はそれぞれの形で責任を問われます。
物語世界
あらすじ
カンザスの田舎では、伝説的なアウトローのウィリアム=マニーが暮らしていました。マニーは殺しと強盗で名を馳せた悪党だったものの、1妻と出逢って改心し、農夫となっていました。二人の子供にも恵まれたものの、妻には先立たれ、農業も不振で、一家は貧困に喘いでいました。
そんな或る日、スコフィールド=キッドと名乗る若い男がマニーを訪れ、賞金のためにワイオミングへカウボーイ二人を殺しに行かないかといいます。家族の将来のために彼はこの話に乗り、キッドを追いかけます。その途中、マニーはかつての悪党仲間で、足を洗って農夫をしているネッド=ローガンの所にに立ち寄るものの、賞金を三等分するという条件でネッド=ローガンもこの話に乗り、連れ立ってキッドの後を追います。
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