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村川透監督『野獣死すべし』解説あらすじ

1980年代解説
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始めに

 村川透監督『野獣死すべし』解説あらすじを書いていきます。

演出、ムード、ジャンル、成立背景

ヌーヴェルバーグ。ゴダール

 本作はヌーヴェルバーグ以降の映画のモードの潮流の影響があります。ヌーヴェルバーグでは、ゴダール、トリュフォーのほか重要な監督は多いですが、ここで本作と特に関連が深いゴダールについて解説を書いていきます。

 アンドレ=バザン主催の『カイエ=デュ=シネマ』に参加したジャンリュック=ゴダールは、バザン流のリアリズムの薫陶を受けました。これはオーソン=ウェルズ(『市民ケーン』)、ロベルト=ロッセリーニ(『イタリア旅行』)に倣いつつ、編集について否定的な立場を取り、カメラをなるべく透明なものにしようとしたものです。一方でゴダールは、バザンの見解に同調しつつ、映像同士のモンタージュの手法も評価しました。ゴダールは、カメラを現実を映す透明な存在というより現実をある形式で発見するツールと見ました。

 加えて、ゴダールはベルトルト=ブレヒトの叙事演劇に影響されました。これは複数芸術である演劇において、具体的な事例を成立するプロセスに関する演出理論です。複数芸術とは、ビデオゲームや演劇など、観客の直接の経験となる事例の創造になんらかの手続きを必要とし、また事例が複数ありうる芸術ジャンルです。それと対照的なのが事例が一つに固定された単数芸術で、小説、映画、絵画、彫刻など多くの芸術をはらむものです。そして、ブレヒト叙事演劇は演劇において戯曲や演出に対して俳優が抱く違和感や態度を、演出に取り入れようとするものと言えます。

 ここからゴダールは『勝手にしやがれ』など、俳優のアドリブによる即興演出を重視しました。

カメラ=万年筆

 また、ヌーヴェルバーグで支配的な言説となったのが、「カメラ万年筆」論で、これはアレクサンドル=アストリュックが唱えたものです。アストリュックは、映画は伝統的な物語や映像の制約を逃れて、書き言葉=万年筆と同じくらい柔軟で繊細な表現手段となるとみていました。ここからヌーヴェルバーグのなかで、とくにゴダールにおいて、作家周辺の私的な世界を描くものや、物語性を欠くエッセイのようなスタイルの作品が展開されていき、実際ゴダールは、フランスの代表的モラリスト、エッセイストのモンテーニュにかぶれ、作品で引用したりしています。

 松田優作という俳優は、ヌーヴェルヴァーグのこうした文脈の延長線上に位置づけられます。俳優の即興やアドリブによる主体性の発揮、俳優や監督の自伝的な要素を背景とする作風、原作からの自由な作家主義的翻案など、松田優作の監督作品や俳優作品を特徴づける要素は、こうした文脈にあります。

ヌーヴェルバーグとリアリズム。作家主義。ニコラス=レイ

 また、ヌーヴェルヴァーグは、「良質な伝統」とよんで、オータンララとか、ウェルメイドなスタイルのフランス映画の伝統に異を唱えました。そして映画監督に着目し、監督の主体性や作家性を前面に押し出す作家主義的監督を高く評価しており、ヒッチコック、オーソン=ウェルズ、フリッツ=ラングなどが代表的です。

 そうした中で、ドイツ表現主義の映画ジャンルのモードがヌーヴェルバーグのなかで積極的に評価されていったきらいがあります。このドイツ表現主義映画の代表作として、ヴィーネ監督『カリガリ博士』『ゲニーネ』、ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』『ファントム』、ラング監督『メトロポリス』『M』などがあります。傾向としてドイツロマン主義を淵源としていて、そこから内的世界の混沌などを描く特徴があるほか、黒を基調とした陰鬱なタッチやグランギニョルでグロテスクなムードは、フィルム=ノワールなど犯罪映画へと継承されました。

 ゴダールはこうした文脈のなかで、特にニコラス=レイという監督を評価していて、レイのフィルムノワールや青春映画の陰鬱でグランギニョルでグロテスクなムードを継承しました。日本でも松竹ヌーヴェルヴァーグにおける大島渚の作風などにも、レイからの連続性を感じさせます。

 松田優作もこうした表現主義、ヌーヴェルヴァーグなどの文脈を踏まえ、自身を芸術家的自意識や苦悩の主体として演出しようとする傾向が強く、本作における演技や演出にも、そうしたテイストが見受けられます。

システムとマーロン=ブランド

 もうひとつ、スタニスラフスキーのシステムと、それを体現するマーロン=ブランドの存在が松田優作映画の背景に大きいです。

 スタニスラフスキーのシステムは、俳優の意識的な活動による、人間の自然による無意識の創造を目ざします。潜在意識を目覚めさせ、それを創造の中に取り入れようとします。

 システムのなかで、与えられた役を生きるためには俳優は役に自分本来の感情を重ね、演ずる人物と戯曲全体の内的な生活を舞台の上に作り出すことが目指されます。

 このシステムに先述のブレヒトは否定的でありましたが、共通する部分もあります。ブレヒトの叙事演劇は、俳優が与えられた役になりきるのではなくて、それに対する違和感や相対的な意識を演技に取り入れ、それによって観客の側にも、周知の存在が新しいかたちで発見されたり伝統的なあり方を問い直されるという効果(=異化)を生むことにあります。他方で、スタニスラフスキーは、俳優に役に没入させようとするものの、それを俳優自身の意識、無意識との関連の中で行わせ、役割と俳優自身の内的世界、そして戯曲全体との有機的統合の中で演じることを志向するのがシステムといえます。つまるところ、ブレヒトもスタニスラフスキーも、俳優自身の主体性とか内的領域を、それが目指す目的や形式は違っていても何らかのレベルで尊重する点で共通しています。

 システムを体現するのがマーロン=ブランドで、特にカザン監督『欲望という名の電車』における演技が有名で、そこには与えられた役割とブランド自身の作家性、主体性との調和が見て取れます。その後もブランドは、キャリアのなかでさまざまな武勇伝や社会的な活動を展開して、伝説としての自分のイメージを強固なものとしていき、一人の映画作家として、自分の人生を生きました。

 このようなスタニスラフスキーのシステムとブランドの存在は、松田優作という俳優のキャリアへの影響が顕著です。松田優作は、本作においてもそうですが、自身の主体性、個性、苦悩を、原作に上塗りするような形で、役割を演じています。また、自身の武勇伝や伝説にこだわり、映画作家としての俳優としての自我を確立し、監督もやってます(ひどい内容ですが)。ここにはシステムとゴダール、叙事演劇における、俳優の主体性尊重の潮流のモードが見て取れます。

原作との違い

 原作の大藪春彦作品では、伊達邦彦を野性的なタフガイとしていました。その造形はハメット作品のニヒルな行動主義者としての側面、スピレーンのマッチョな行動主義者としての側面を合わせたようなものになっていて、行動主義者三島由紀夫が好んだほか、江戸川乱歩などからも発見され、中里『大菩薩峠』、柴田『眠狂四郎』的なニヒル剣士の後継のように捉えられました。

 他方で、本作では脚本の丸山昇一が、伊達を飄々とした、暗く危うい男として描きました。このあたりは、原作伊達邦彦は混乱する戦後の日本に現れた戦争のトラウマと暴力的衝動を抱えた野生児であるところ、舞台が80年代なので世相の変化を踏まえて、同時代風の屈折した若者のイメージが取り得れられている模様です。その方向性は先にも言ったニコラス=レイ作品やゴダール作品、ドイツ表現主義作品に似た、内的に混乱した病的なキャラクターとして、野生児というより狂気のカリスマとして、野獣伊達邦彦を描いています。

 原作の伊達邦彦が、戦争のトラウマに傷つきながらも内なる獣性に目覚め、戦後の混乱した世相と偽善のなかで獲物を求めて自由に駆け回る主人公なのに対して、松田優作の演じる伊達邦彦は、ジャーナリストとして経験した戦争のトラウマで狂気に駆られ、終盤には妄想に支配されて暴走し、殺人の場面を撮影したり自分を神の超越存在とのたまったり、奇行を繰り広げ、やがて射殺される、狂気の怪物的キャラクターとして演じられています。

ニューシネマ

 本作は全体的にニューシネマの影響が顕著にあります。

 伊達邦彦が、戦争のトラウマから終盤錯乱し、ロシアンルーレットを強制する展開は、チミノ監督『ディア=ハンター』を連想します。

 ニューシネマには、他にも『タクシー=ドライバー』などベトナム戦争のトラウマを背景とする作品が多いですが、本作もそうした描写と重なる、戦争のトラウマと狂気が描かれます。

物語世界

あらすじ

 ある大雨の夜、東京都内で警視庁捜査第一課の警部補、岡田良雄が刺殺されて拳銃を奪われ、その拳銃を使用した違法カジノ強盗殺人事件が発生します。

 事件を起こした伊達邦彦は、東京大学卒のエリートで頭脳明晰、元射撃競技の選手でした。しかしかつて大手通信社外信部記者として世界各地の戦場を取材し、惨状に触れ、社会性や倫理を捨て去った「野獣」となりました。伊達は通信社を退職後、翻訳のアルバイトをしながら趣味の読書とクラシック音楽鑑賞に没頭し、世捨て人になっていました。岡田の部下だった刑事、柏木秀行は伊達に目星をつけ、追及します。

 銀行を次の標的にする伊達は綿密な計画をたてますが、単独犯行は不可能であるとみて、共犯者探しを始めます。ある日、大学のゼミの同窓会に出席した伊達は、会場となったレストランで、無愛想なウェイターの青年、真田徹夫と出会います。真田に「野獣」を見て取った伊達は身元を調べ行きつけのバーを探り、客として真田に接近します。親しくなり、コンプレックスや、恋人原雪絵に殺意を持っていることなどを知ります。

 伊達は真田に銀行襲撃計画を明かし、雪絵の殺害をそそのかします。銃の扱い方を伊達から教わった真田は、雪絵を射殺します。伊達は「君は神さえも超越するほどに美しい」とたたえ、「野獣」として生きていく方法を教えます。

 2人は銀行襲撃を決行します。銃撃戦のなか、地下金庫から大金を収奪するものの、伊達に思いを寄せる華田令子が居合わせていました。伊達は、客のなかで令子にだけ引き金を引きます。

 2人は鉄道を乗り継ぎ、警察の緊急配備網をすりぬけたものの、柏木が2人の乗る青森行きの夜行列車の中に追いつきます。

 列車の中でラジオから放送を聞き、柏木は伊達が犯人であることを確信して拳銃を向けながら取り調べを開始しようとするものの、背後から真田にライフルを突きつけられ怯んだ所で拳銃を奪われます。

 伊達はその拳銃の5連発のシリンダーに1発の銃弾を込め、柏木に向けて『リップ・ヴァン・ウィンクル』のあらすじを語りながらロシアンルーレットを始めます。引き金が4回引かれても弾は発射されず、逃げる柏木へ向けてついに5回目の引き金を引きます。伊達はまた真田の持っていたライフルを奪い、見回り中の車掌を射殺し、その死体をカメラに収めます。

 戦場記者時代の衣服を身に着けた伊達は、戦場の記憶と現実の区別がつかなくなり、ライフルを手放さず、支離滅裂なことを口走ります。列車の窓から飛び降りた2人は、山中の洞窟へ逃げ、居合わせたアベックを襲います。

 伊達が男を射殺したあと、真田が女を手込めにする間、伊達はそれを何度も撮影しながら、戦場で人を殺すことの快楽に目覚めた経験を「神を超えた」という表現を用いて語ります。やがて伊達は目の前で女を抱く真田を射殺します。天を指差す伊達の頭の中にはショパンのピアノ協奏曲第1番第3楽章が流れていました。

 白昼のコンサートホールの客席で、伊達はピアノ協奏曲第1番を聴きながら眠ります。伊達は目を覚まして立ち上がると、ホールの反響を確認するように2回短く叫び、立ち去ろうとします。

 直後、伊達は砲弾の音を聞き、腹を押さえてのたうち回りながら、血まみれの柏木の姿を遠くに見たのでした。

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