始めに
タルコフスキー監督『惑星ソラリス』についてレビューを書いていきます。
演出、背景知識
作家主義の巨匠でありつつ…
タルコフスキー監督は作家主義の中でもトップランカーと言いうる才能です。それこそ黒澤明やオーソン=ウェルズのような感じで、基礎的な演出スキルに秀でているのはもちろんのこと、作家主義的なオリジナルな個性を前面に押し出しても見ごたえのある内容になります。
とはいえ黒澤明や三島由紀夫(『金閣寺』)、チャンドラー(『長いお別れ』)にも似て、繊細な描写力はありつつモダニズム文学やアート映画に対する理解度は希薄で、守旧的な映画作家です。
脚色の特徴
タルコフスキーは黒澤明が助監督時代に脚本家としてすぐれた才覚を発揮し、『羅生門』などでその要領を活かしたのに似て、映画の基礎的スキルが地味に高いです。例えば習作の『殺し屋』(ヘミングウェイの原作)など、シーゲル、ロバート=シオドマクのものには劣るものの、足し算引き算が巧く、映画化にあまり向いてない原作を手堅くまとめています。
『惑星ソラリス』もそうした手腕がさえわたります。
原作との違い
原作のレムはタルコフスキーと作家性の全く異なる作家です。レムの方が全体的に筒井康隆とかボルヘスに似たバロック喜劇作家で、タルコフスキーの方が三島由紀夫(『永すぎた春』)とかラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』)のような守旧的なスタイルの作家です。なので根本的に作風が異なっています。
原作のコンセプトは人間中心主義批判になっています。未知の惑星ソラリスは完全に人知を超えた存在で、地球においてはソラリス学という科学分野が発展しておりつつも、その存在を完全に捉え損ねています。人間の理解の範疇を超えた存在の崇高さをモチーフとした人間中心主義への批判が原作のテーマです。
一方でその映画化たる本作は、復活した亡妻との関係や、罪悪感、トラウマをめぐるメロドラマ的な部分が中心になっています。原作ともその展開は共通しつつ、原作においては亡妻の復活はソラリスの不可解さの一面に過ぎぬものです。本作は死者との禁断の関係を中心にするメロドラマで、コクトー監督『オルフェ』のような内容です。神秘主義的な意匠を凝らしたメロドラマになってます。
ラストも原作は人類へ希望を感じる内容ですが、本作では主人公はソラリスが見せる過去の世界に囚われてしまいます。
脚色の是非
全体的なテイスト、コンセプトの違いから原作者を激怒させた作品として知られていますが、とはいえ私はこの脚色が不合理だと思いません。
そもそも原作がそう映画化向けではなく、ソラリス学の展開など映像化に向かない部分が大きいところ、ビジュアル的インパクトの大きい亡妻とのエピソードに絞ってメロドラマに仕上げることは合理的な判断と思っています。
とはいえ尺が長すぎて大味な印象がするのも事実です。コクトー監督『オルフェ』くらいのボリュームがベターな気がします。
物語世界
あらすじ
海と雲に覆われた惑星ソラリスを探索中の宇宙ステーション「プロメテウス」からの通信が途切れ、地球の研究所で会議が開かれます。帰還した乗組員は、ソラリスの海の表面が複雑に変化し、街や赤ん坊のかたちになるのを見たと証言します。心理学者のクリス=ケルヴィンは豊かな自然に囲まれた一軒家で父母とともに暮らしているが、状況を調査するために呼び出され、ロケットでステーションへと向かいます。
ステーションの内部は閑散としており、謎の少女が通路に姿を現します。もうひとりの科学者でケルヴィンの友人であったギバリャンはケルヴィンにビデオメッセージを残して自殺しており、その映像にも少女の姿が映っています。
翌朝、ケルヴィンが眠っている部屋に、かつてケルヴィンとの諍いの果てに自殺したはずの妻ハリーが現れます。目覚めたケルヴィンは内心驚くが、ハリーは自然な態度でケルヴィンと会話します。その腕には彼女が自殺した時に使った注射の痕がそのまま残っていました。ケルヴィンは小型ロケットにハリーを乗せてハリーを追い払うものの、翌朝になるとハリーはケルヴィンの部屋にいます。
海そのものが知性を持つ巨大な有機体で、それがステーションにいる人間の内面を読み取って、記憶の中の存在を実体をもつものとしてステーションに送っているらしいのでした。
ハリー自身も液体酸素を飲んで自殺をはかるものの、凍りついた身体がもとにもどると息を吹き返します。やがてケルヴィンはソラリスが生んだハリーを愛するようになります。しかし、ソラリスの海の正体を調べるための照射実験が行われると、ハリーはいなくなります。
緑豊かな実家で過ごしているケルヴィンですが、そこはソラリスの海がその表面に作った小さな島の上でした。



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