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宮崎駿監督『もののけ姫』解説あらすじ

1990年代解説
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始めに

始めに

 宮崎駿監督『もののけ姫』解説あらすじです。

演出、背景知識

網野善彦の影響、ジョセフ=キャンベル、クリストファー=ボグラー

 本作品は、宮崎駿という映画監督にとって、良くも悪くも転換点になった作品です。モダニズム文学はT=S=エリオットの『荒地』などを皮切りに、フォークナー(『響きと怒り』)、ジョイス(『ユリシーズ』)、三島由紀夫(『奔馬』)、大江健三郎(『万延元年のフットボール』)など、神話的象徴の手法を取り入れるようになりました。これは神話の象徴として特定の対象が描写され、新しい形で神話や特定の対象が発見される機知が喚起する想像力に着目するアプローチです。こうした象徴的手法はジョセフ=キャンベルなどにも由来し、またハリウッドではキャンベルの文化人類学からクリストファー=ボグラーが脚本術として体系化します。

 T=S=エリオット『荒地』はまた、コンラッド『闇の奥』の影響があり、『闇の奥』の非線形の語りを『荒地』も取り入れています。『闇の奥』は、語り手が物語世界内の他の登場人物の語りの聞き手に交代することなどにより、語りの主体を複数導入しています。一個のエージェントの視点やその現象的経験に着目して歴史を物語るアプローチはコンラッド『闇の奥』からT=S=エリオット『荒地』やフォークナー『響きと怒り』へと受け継がれていきます。

 そうした一個のエージェントに着目して歴史の再現や再構築を図る試みはその後、歴史学の中のアナール学派以降の心性史的試みと結節していくことになり、そうした中で心性史としての文化人類学、民俗学に着目する中上健次(『千年の愉楽』)のような作家も現れました。宮崎駿もそうした前史を踏まえ、中上健次も着目した綱野善彦の文化人類学、民俗学に注目しています

作家主義、ロマン主義

 宮崎駿には偉大なる父として手塚治虫がありましたが、手塚治虫はゲーテ『ファウスト』を下敷きにする『ネオ=ファウスト』を未完のまま亡くなりました。ゲーテという作家は、形式主義者という意味合いにおいて古典主義者であり、作家主義者であるという点でロマン主義者でした。同時代のフリードリヒ=シュレーゲルはゲーテの『ヴィルヘルム=マイスターの修行時代』をシェイクスピア『ハムレット』への批評性に基づくものとして、高く評価しました。このような立場からは『ファウスト』がダンテ『神曲』のある種翻案であるのと同様に、『ヴィルヘルム=マイスターの修行時代』も『ハムレット』のある種の翻案であると評価できそうです。古典の形式をなぞりつつ、ゲーテという作家個人の主体性を発揮することで展開される翻案作品がここにはあります。

 手塚治虫の『ネオ=ファウスト』も『ファウスト』への批評性に基づき古典である『ファウスト』の形式を踏まえつつ、手塚という個人の作家性を全面に発揮した翻案となっています。映画においてはオーソン=ウェルズ監督『ハムレット』、ゴダール監督『ゴダールのリア王』、キューブリック監督『シャイニング』のような、原作という形式に対して作家個人の作家性を発揮した脚色に仕上がっています。『もののけ姫』以降の宮崎駿においても事情は似通っており、例えば『ハウルの動く城』『風立ちぬ』『君たちはどう生きるか』などの作品は、原作に対して宮崎駿個人の作家性をふんだんに凝らした内容となっています。

 そして本作『もののけ姫』は、宮崎駿の作家性を象徴する『風の谷のナウシカ』を、モダニズム文学の神話的象徴性、心性史的試みから再解釈をはかった内容になっています

自然の崇高さ

 本作品は自然の崇高さから、人間という種が自己絶対化を間逃れ、生態系や環境に対して配慮の責任を問われる環境倫理的主題が描かれています。新井『ザ=ワールド=イズ=マイン』と重なります。

 本作は照葉樹林文化論の示唆を受けた世界観を舞台としており、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』を参考にしています。この本は日本文化の基底が稲や稲作農民ではないことを検証しており、本作では稲作農民に代表される平地の「定住民」とは別の生活圏を持つ「遍歴民(山民・海民・芸能民など)」が多く登場します。

物語世界

あらすじ

 日本が舞台。東と北の間にあると言われるエミシの村に住む少年アシタカは、村を襲ったタタリ神を退治した際、右腕に死の呪いを受けます。その正体は、何者かに鉛のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大な猪神(ナゴの守)でした。アシタカは呪いの為村を追われ、呪いを絶つべく猪神が来た西の地へと旅立ちます。

 アシタカは旅の道中、乱妨取りに奔る地侍との戦いや謎の男ジコ坊との出会いを経て、古い神が棲むというシシ神の森に向かいます。谷川の岸に辿り着くと、そこには谷に落ち川に流され、気絶している男たちがいます。彼らを助け対岸を見ると、そこには傷ついた山犬と1人の少女の姿があります。山犬と少女はアシタカをにらみつけ、その場を去ります。
 その後アシタカ達は、森の端でコダマに会います。案内されるように森の中を進み、奥の池の岸に着くと、そこに金色に光る鹿のような生き物、シシ神がいます。その姿を見た瞬間、アシタカの腕のあざが反応します。
 シシ神の森を抜けて男達の村に着くと、そこは「タタラ場」と呼ばれる、鉄を作る村でした。その地を治めるエボシは「石火矢」と呼ばれる火砲を村人に作らせ、それを使って森に棲む「もののけ」や、村の鉄を狙う地侍たちから村を守ります。
 彼らは鉄を作る為に自然を破壊している自覚はあるものの、シシ神やもののけ達を敬っている訳ではありません。アシタカはそこで村人達の話を聞き、彼らにとってエボシは、生きる希望を与えてくれるものである事を知ります。そして同時に、自分に呪いを与えた猪神に鉛のつぶてを撃ち込んだのもエボシと知ります。
 その夜、エボシの命を「もののけ姫」が狙いに来ます。その正体はアシタカが川岸で会った、山犬に育てられた人間の娘、サンでした。アシタカは窮地のサンを救うものの、同時に瀕死の重傷を負ってしまう。アシタカは倒れながら「生きろ」とサンに語りかけるも、人を憎むサンは聞く耳を持たず、アシタカを殺そうとします。しかしその時、サンはアシタカから「そなたは美しい」と言われて動揺します。
 その後サンは、アシタカを生と死を司るシシ神の住まう湖に連れて行きます。シシ神がアシタカの傷を癒すのを見た彼女は、アシタカを生かす事にします。アシタカは、森と人が争わずに済む道は無いのか、と思い悩みます。
 その頃タタラ場には、エボシにシシ神殺しをさせようとする怪しげな装束の男達が集結します。彼らを率いるのはジコ坊です。男達は天朝よりシシ神殺しを許可され、不老不死の力があるというシシ神の首を狙います。エボシ達も森を切り開くのをもののけ達に邪魔されたくなかった為、協力を約束しました。

 タタラ場を出発したエボシ達は、人間との最終決戦を行おうとする猪神の大群と大戦争を始めます。ところが、エボシが留守にしたタタラ場は、鉄を狙う侍の集団に襲われます。
 日が暮れる中、森の中でアシタカはシシ神の池に向かうエボシに会い、神殺しを止めて侍に襲われている村に帰るよう伝えます。彼女と別れたアシタカはサンを探しに森の奥へ行くものの、エボシは構わず湖に向かいます。
 池で月光を浴び、夜の姿に変わろうとするシシ神を見つけたエボシは、気絶したサンを抱えたアシタカが止めるのも構わず、遂にその首を取る。するとシシ神の体から不気味な体液が大量に飛び散り、それに触れた者達は死に、木は枯れてしまう。やがて体液は津波のような勢いで山を埋め尽くし、森は枯れ果てて、タタラ場も壊滅してしまうのであった。
 目覚めたサンは、森を見て森が死んだと絶望し、人間への憎しみを爆発させます。しかし、アシタカはとサンを説得し、二人は協力して、シシ神の首を持って逃げようとするジコ坊を押し留め、首をシシ神に返します。シシ神は首を取り戻すものの、朝日を浴びると同時に地に倒れて消えます。その瞬間に風が吹き、枯れ果てた山には僅かに緑が戻り、アシタカの腕の呪いも消えます。
 アシタカのプロポーズに対し、サンはアシタカは好きだが、人間を許せないと語ります。アシタカは、「サンは森で私はタタラ場で暮らそう、共に生きよう」と語ります。エボシもタタラ場の村人達に、新たに良い村を作ろうと語ります。
 最後に、倒れた一本の大木の上に芽生えた若木の横に、1体のコダマが現れて、頭を動かしカラカラと音を立てます。

参考文献

小田部胤久『西洋美学史』

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